野球が下手な人間に野球のアドバイスをもらうか?
「友達にききます」
先日、夏に入塾してくれたある生徒と「宿題で分からない問題があったらどうする?」といった話をしたところ、彼の返答は「友達に聞きます」というものでした。
今までも学校の宿題やテスト勉強で分からないところがあったらそうしていたようです。「友達にきく」、さて、それが学習効果という点でどれほど意味があるのでしょうか。
個人的にはあまりいい方法ではないと考えています。友達が教えてくれるレベルってどの程度なのでしょう。答えを教える?やり方を教える?正しい知識を背景に適切に教えられる?経験則として、だいたい答えを教えてお互い満足する、このタイプが多いように思います。しょうがない、教える側も同じ中学生ですので。
ちなみに教える側にはメリットがあります。有名なラーニングピラミッドというモデルによれば、誰かに教えるという行為は理解や定着にかなり効果があるようです。ただ残念ながら教わる側はほとんど効果がありません。むしろ友達に聞くのは理解という点でほとんど意味がないように思えます。
「調べる」=「考える」
分からない場合はぜひ自分で調べるべきだということを子どもたちには知ってほしいと思います。たとえば教科書から答えを探すことも「調べる」ことです。教科書は「答えはここだよ」とは教えてくれません。答えにたどりつくには適切な思考でページや行を追わなければなりません。その作業だけでも「考える」というプロセスを経ます。
何かを理解しようとすれば、「考える」プロセスは最低条件です。教科書をめくるちょっとの手間をかけられるかどうか、実はこの小さなことの積み重ねが理解や定着の差となって現るのだと思います。
教科書、辞書、資料集など、ツールはすでにあるものを活用すれば問題ありません。中学生でもときおり「何を使って調べていいか分かりません」という子がいます。そういう場合は具体的に「教科書」と伝えてあげた方がいいかもしれません。
また「調べる=答えを見る」と勘違いをしている子もいます。数学など解き方を確認するために解答に載っている解く手順を追うのを別にすれば、ただ正答だけを見て満足するのは「調べる」ということにはなりません。
ちなみに夏休み前あたりに体験に来た中学3年生の子たち複数人がそろって学校のワークの答えをまるで機械のように写していてびっくりしました。聞けば「分からないから答えを写している」と言います。そんなスタンスで中学3年生まで勉強に向かっていたのかと思うと、もはやそれは周りの大人の責任だろうと感じました。誰か何か言ってやれと。
一手間かけるめんどくささ
子どもたちからすると、おそらく分からない問題を誰かにきくということは自然なことなのだと思います。「学校の先生にききなさい」「塾の先生にききなさい」と言われて育ってきているからです。そしてその延長上に「友達にきく」があるのだと思います。
誰かにきくのであれば、先生より友達の方が敷居が低い。ただ残念ながらそこにあまり意味がないわけです。「野球の苦手な子に野球のアドバイスをもらうか?」確か中学時代の先生がクラスに向けて話してくれたセリフだったと記憶していますが言いえて妙だと思います。
自分で調べることは手間がかかることですが、中学生の皆さんにはぜひその一手間をかけてほしいと思います。