社会が「暗記科目」のウソ
英語や数学、国語、理科と比べて、社会はよく「暗記科目」と言われます。だから勉強の順番としては後回し。どうせおぼえるだけでいいんでしょうと、ぞんざいに扱われてしまうわけです。
確かに学校のテストでは基本的な用語を暗記さえしていればそれなりの点数が取れるような問題構成になっているのも事実です。いわゆる一問一答という形式です。
「冠位十二階定めたのは誰ですか」「聖徳太子!」
こうやって切り取ると暗記で十分ですね。
ただ、最近の高校入試の傾向を見るとどうも社会の問題の形式が変わってきています。福岡県だけでなく全国的に表やグラフを読み取る問題や記述形式の問題が増えてきました。
さて入試問題の傾向の変化の話はまた別の機会にとっておきますが、なんだか最近「社会」の周辺が騒がしいわけです。
「社会は暗記科目かそうじゃないのか論争」です。(勝手に名前つけました)
個人的には社会は暗記科目ではないと思っています。ちなみに社会であれ他の科目であれ、最低限おぼえておかないといけないことはあります。人によっては暗記の真逆のイメージがある数学ですら「暗記だ!」というくらいです。テストや入試で点数を取ることだけを前提にすると、すべての科目は暗記科目だという極端な意見も出るのかもしれません(そして塾講師としてそれも否定はしません)。
ほかの四科目を含めて社会も暗記科目じゃないという理由は二つあります。一つ目はそもそも学問って…という今回の趣旨から外れた話になるので割愛します。ここでご紹介したいのは二つ目の理由です。
「理解」をすればおぼえるのが楽になる?
社会という科目はそもそも人間の営みに関して学ぶ科目です。地理も歴史も公民も、時間軸や空間軸に違いはあれど、すべて人間がどう生きている(た)かを学ぶ科目です。だからこそそこには、「なぜ?」がたくさんあふれています。
たとえば先ほどの問題、「冠位十二階を定めたのは誰?」「聖徳太子!」ももう少しつっこんでみるとたくさんの「なぜ」が出てきます。なぜ冠位十二階を定めたのか、なぜ飛鳥時代に定められたのか、なぜ聖徳太子が定めたのかなどなど。
こうやって物事の理由や文脈を考えていくと、社会は暗記科目から「考えて理解する科目」に変わっていきます。そしてこうやって「なぜ?」と考えていけば、もはや冠位十二階は聖徳太子が定めてなんておぼえなくても頭に残ります。
またいわゆる「応用」もきくようになります。中国の西部では主に牧畜を行っていますが、それが気候のためだと分かると、アメリカの中央部や西アジアの雨の少ない地域で牧畜が盛んな理由も分かります。高校入試の問題だってなんの問題もなく対応できるようになります。
余談ですが、以前からお世話になっているベテラン塾講師の話をちょっと。
その方は理系で、担当する授業も数学と理科がメインでした。なのに社会の知識がものすごいわけです。なんでそんなことまで知っているんですか!ということまで知っていて驚かされることがたびたびありました。特に地理。
ある日、なぜそんなに博識なのかと訊いてみると、「地図を見るのが好きなんだ」とおっしゃる。なんでも地図を見ていると「なんでここに飛行場があるんだろう」とか「なんでこんな不便なところに集落があるんだろう」とか、そんなことを考えるのが好きなんだそうです。そしてそうやって「なぜなぜ」と考えていろいろ調べるうちに、生きた知識として自然とおぼえちゃったのでしょう。
そんな話を聞いて以来、私の社会の授業も変わりました。とにかく生徒たちに「なぜ?」と訊く。これだけで、クラス全体の社会への理解が深まっていきました。当時教えていた生徒たちは学校の定期テストでもよく点数を取ってきました。ある学年にいたっては全員での社会平均点が最高で88点。今でも覚えています。全員で25名ほどでした。
不毛な暗記から解き放たれよう!
そもそも暗記ってつまんないですよね。暗記が暗記であるうちは、それこそ「なんでこんなことまでおぼえないといけないの?」と勉強自体がつまらなくなるものです。
そして効率が悪い。脈絡もなく言葉だけをおぼえることは時間もかかるうえに応用が利かない。やめましょう。
子どもたちにはぜひ社会は「暗記をする」ものではなく「考えるもの」だと知ってほしいと思います。そうすれば、社会がもっともっとおもしろく感じられますし、得意科目にもなるのだと思います。